小説 「署名運動と愛子と、時々 高橋」

──春。

例年より早めの桜が舞う大倉山の町。通りを歩けば、満開の桜の花びらが風に舞い、どこか遠くで子どもたちがはしゃぐ声が聞こえてきた。高橋は自宅のリビングで、リモコンのボタンを何度も押しながら、テレビに映る春の特番を流し見していた。心の中は、まったく違うことに占められていた。

大学の卒業まであと少し。それなのに、たった一単位がどうしても手に入らない。大学生活を振り返っても、ずっと何か足りない気がしていた。忙しさに追われて課題を放置し、面倒なことは後回しにしてきた結果が、今になって自分に跳ね返ってきている。テーブルの上に広げた履修表に、目を凝らしてみても、そこには卒業に必要な単位数と、まだ埋められていない一つの項目が並ぶばかりだった。

「……卒業できないのか?」

思わず呟いた言葉は、虚しく響く。高橋は一瞬、ため息をついてから、スマートフォンを取り出して画面を開く。指で画面をスワイプすると、ある名前が目に入った。

「教授……」

しばらくためらってから、高橋は電話をかけた。まもなく、高橋の耳に教授の声が重く響いた。

「高橋か?」
「はい、教授。あの……お願いがあって。」
「何だ?」
「卒業の件なんですが、最後の単位……どうしてもいただけないでしょうか?」

教授の返事は冷たかった。
「うるさいね。ダメなもんはダメ。」
「でも、たった一単位なんです。これがないと、卒業できないんです。」
「君の問題だろ? 何を言っても無駄だ。」
「課題とか……」
「やらなかったのは君だろ?」
「そりゃそうですけど……」
「ほら、株価が気になるから、新聞読ませてよ。」

その後は、何を言っても無駄だと感じて、会話はすぐに終了した。高橋は電話を切り、静かなリビングに一人残された。外では桜の花が風に舞い、目の前の現実とあまりにもギャップがあるように感じた。

***

しばらくして、友人の佐藤が電話をかけてきた。高橋の状況を知っていた佐藤は、いつものように少し面倒くさそうな声で言った。
「お前、卒業できないのか?」
「できない。」
「そうか。入社予定の会社はどうすんだ?」
「もう、無理だ。」
「ふぅん、かわいそうに。」
「そうだな。」

沈黙が続いた。二人の間には、あまりにも多くの言葉が存在しているのに、どうしても出てこなかった。気まずい時間が流れる。
そんな中、佐藤は重い口を開いた。
「署名を集めてやるよ。」
「署名?」
「みんなの署名が集まれば、先生も考え直すかもしれないだろ?」
「……そうか、そうかもな!」

高橋は少し、気持ちが楽になったように感じた。
「頼んだぞ、佐藤。」

***

佐藤は翌日から早速署名活動を始めた。まず、学科の友人で、比較的協力的な田中に声をかけた。
「署名してくれよ、頼む。」
田中は少し考えてから、「いいよ」と答えてくれた。
次に、気が弱そうな鈴木にも声をかけた。鈴木は少し渋りながらも、「別にいいけど」と署名を快諾してくれた。
二人の署名が集まったところで、佐藤はふと気づいた。
「これ、めちゃくちゃ面倒くさいな……」

署名帳をテーブルに広げたものの、その場で何も進まないような気がしてきた。その瞬間、佐藤のスマートフォンが鳴った。
LINEの通知が表示される。
「今日の卒業パーティ、一緒に行かない?」
それは、佐藤が長い間片思いをしていた愛子からのメッセージだった。

佐藤は署名帳をそのまま放り出し、ジャケットを羽織った。
「行くわ。」

***

翌日。
高橋が佐藤に尋ねた。
「で、署名は?」
佐藤はポケットを探り、署名帳を取り出す。
「……田中と鈴木の、2人分。」
「それだけ?」
「それだけ。」

高橋は佐藤を見つめ、しばらく沈黙した。
「でもな、昨日の愛子、めちゃくちゃ可愛かったぞ。」
佐藤はにやりと笑い、肩をすくめた。

──4月、桜が舞い散る中、高橋は静かに5年目の大学生活をスタートさせた。

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