小説「死人にクチナシ(第二話)」

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盆踊りの夜を迎えた町は、静かに胎動を始めた。
集会所から広場へと続く細道には、宵闇を赤く染める提灯が、風に揺れ、まるで地に堕ちた火の玉のように明滅している。
櫓の上では、青年部の男が、慣れない手つきで太鼓のバチを握り、乾いた音を響かせていた。
ドン、ドン、と、湿り気を帯びた夜の空気に、重く低い振動が伝わる。
様々な屋台から立ち昇る匂いが、夜の帳に溶け合うように漂っていた。
香ばしい焼き鳥、ひんやりとした甘さのかき氷、出汁の香りを纏ったたこ焼き──。
そして、その中に混じるのは、あの独特の焼きそばの匂い。町の誰もが、盆踊りの夜といえば、否応なく思い出す、あの焼きそばの匂いだった。

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婦人会の白いテントの下では、今年もまた、頑ななまでに変わらない味が、守り抜かれていた。
年季の入ったエプロンをつけた面々が、熱気を帯びた鉄板に向かい、手際よくヘラを操っている。
山盛りのキャベツ、申し訳程度に散らされた豚肉の破片。
そこに、躊躇なく、どろりとした茶色のソースが、惜しげもなく注がれる。
鉄板の上で湯気が濛々と立ち昇り、甘ったるく、どこか懐かしいソースの匂いが、周囲の空気を支配した。
「この匂い嗅ぐとむせちゃうよ」
「これでいいんだよ。君江さんのレシピなんだから」

長年受け継がれてきた、この盆踊りの味。炒めすぎて水分が抜け、べちゃべちゃになった麺も、ソースが焦げ付いて黒くなったキャベツも、全てが、レシピ通りに調理されていく。
「……生田さん、来るかな」
佐藤は、焼きそばの湯気が立ち昇るテントの脇で、空を見上げながら呟いた。
「来るだろう。焼きたての食わせるって、約束したからな」
小林は、汗ばんだ額をうちわで扇ぎながら、どこか自信なさげに答えた。
しかし、祭りの喧騒だけが時間を刻み、焼きそばは次々と焼き上がり、無造作にプラスチックのパックに詰められていく。約束の時間は過ぎても、生田の姿は、どこにも見当たらなかった。
やはり、幽霊に人の世の約束を期待すること自体が、根本的に間違っていたのだろうか。
そんな諦念にも似た空気が漂い始めた、その時──。
ふらり、と、夜の闇から、生田が現れた。

古びた藍色の甚平は、生前のまま。擦り切れ、ところどころ白けている。
ただ、足元を確かめるように歩く草履の音だけが、やけに静かで、夜の喧騒の中に吸い込まれていくようだった。
祭りの人波を縫うように、生田はまっすぐ焼きそばの屋台へと近づいてくる。周囲の誰もが、彼が「生きていない」ことを知っていた。
それでも、誰も目を逸らすことはなかった。まるで、そこにいることが、ごく自然なことであるかのように。
ばつが悪そうに、生田は、湯気が立ち昇るテントの前で静かに立ち止まった。
目の前には、出来上がったばかりの焼きそば。熱気を帯び、甘辛いソースの匂いをあたりに撒き散らしながら、生田を誘っている。
「……で?」
生田は、嗄れた声で口を開いた。
「焼きたては、どれだ?」
婦人会の一人が、慌てたように、まだ湯気を立てているパックを差し出した。
透明なプラスチックの奥で、茶色く照りつける麺が、熱で少し歪んでいる。
生田は、その焼きそばを、じっと見つめた。しばらくの間、手を伸ばそうとはしなかった。
「それであの、町会費のことは?」
佐藤が、喉の奥を締め付けるような緊張感の中で、問いかけた。
生田はそれを無視し、差し出されたパックの焼きそばを、ゆっくりと指先でつまんだ。
熱いはずなのに、まるで温度を感じていないようだった。
そして、無表情のまま、一口、口に運んだ。
もぐもぐと、ゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。
生田の表情は、微動だにしなかった。
「……あいかわらず、まずいな」
ぽつり、と、まるで独り言のように呟いた。
周囲の喧騒が、一瞬凍りついたように静まり返る。婦人会の数人が、かすかに顔をしかめた。
だが、生田は続けた。
「これだよ、これ」
もう一口、焼きそばを口に運んだ。
佐藤たちは、息を呑んで、その様子を見守った。
「あの、町会費の話は?」
小林が、耐えきれずに、前のめりになって訊いた。
生田は、もったいぶるように、焼きそばをもう一口味わった。
しばらくして、ようやく、重い口を開いた。
「……焼きそば、あとひとパックくれ。ちゃんと、熱いやつな。あと箸もくれよ、気が利かねえな」
佐藤は、慌てて鉄板の上に残っている、まだ湯気を上げている麺を探し、急いでパックに詰め、生田に差し出した。
生田は、それを受け取ると、じっと見つめた。
「……2パックも、もらって悪かったな。町会費、しょうがねえから払ってやるよ」
ぽつりと、そう言った。
佐藤、小林、鈴木──そして、焼きそばを作っていた婦人会の女性たちも、思わず顔を見合わせた。

ーーー
祭りの太鼓の音が、徐々に、しかし確実に、大きさを増していく。
町の夜は、ゆっくりと、しかし確実に、膨らんでいく。
人々の笑い声が、夜空に吊るされた提灯の赤い火を、かすかに震わせていた。
「ちょっとあっちで食ってくるからよ、会費はちょっと待っててくれ」
生田は、焼きそばのパックを片手で持ったまま、ふらりと、祭りの喧騒の中へと姿を消していった。

生田が会場の隅の生垣へ向かってはふらふらと歩いていくと、一人の若い女に目を奪われた。
淡い桃色の生地に、控えめなクチナシの花が散りばめられた浴衣。腰に締められた帯は、風にふわりと揺れている。長い黒髪が、肩から背中へと、絹糸のように滑らかに流れ落ちていた。
えも言われぬその美しさに、心臓の奥がざわめくのを抑えられなかった。しかし、いい年をして若い女をじっと見つめていることに気まずさを覚え、生田は視線を足元の砂利に向け、逃げるように歩を進めた。

「二郎さん」
生田は背筋に電流を流されたかのような衝撃に、ハッと振り返った。
そこには、60年ほど前、二郎が初めて出会った頃の、可憐な花の様な君江の姿があった。
何を驚いているんですか、とでもいうように、君江は楽しげに口元を隠して笑った。
「焼きそば、持ってるんですね」
君江は、嬉しそうに目を細めた。
生田は、無言で手に持ったパックに目をやった。喉の粘膜が渇いて張り付いてしまったかのように、声が出なかった。
「その焼きそば、おいしくないでしょ」
君江は、浴衣の袖を指先で軽くつまみながら、少しだけ首を傾げた。
「みんなには、いつも不評でしたものね……」
「そんな事ねえよ」生田は、少し語気を強めて言った。君江は、そんな彼の様子を面白がるように、また微笑んだ。
二の句が告げない生田を見て、君江はまた微笑んだ。「温かいうちに、食べないと、もったいないですよ」。

遠くのヤグラから聞こえる賑やかな囃子、子供たちの嬌声、提灯の揺れる光が、二人を包み込むように、懐かしい夜風が同時に二人の頬を優しく撫でた。
生田は、パックを開け焼きそばを口に運んだ。心なしか、箸を持つ手に力が入らない。冷めてしまったソースの、酸味と甘みが混ざり合った、どこか頼りない香り。もう一口。水分を失い、もそもそとした麺の、心許ない食感。それでも──。生田は、口いっぱいに広がる、遠い記憶の断片に、そっと目を閉じた。
「──なあ、君江」
君江はヤグラに目を向けたまま、穏やかな微笑を湛えている。
紅生姜のピリッとした味が、冷えた舌にじんわりと広がった。生田は、ゆっくりと咀嚼しながら、隣に佇む君江に、そっと顔を向け、呟いた。
「俺、……今ならそっち側に行けるような気がする」
君江は、何も言わなかった。ただ、その微笑みは、彼の言葉をそっと肯定しているようだった。
ほぼ空になったパックから、最後の紅生姜の切れ端を摘んで口に運ぶと、生田は君江の方に少し顔を向けて呟いた。
「行くか」
すぐ横にあるゴミ箱へパックを捨てて振り返ると、君江が、柔らかく色白な手を差し伸べていた。夜の闇に浮かび上がるその手は、温かい光を帯びているようだった。生田は、ほんの少しだけ照れたように、その手をそっと握り返した。二人の手のひらが触れ合った瞬間、静かな安堵感が生田を包んだ。
「待たせたな」
生田は、君江の瞳を見つめながら、そう言った。
「はい、待ちました」君江は、囁くように答えた。
その声は、夜の静けさに溶け込むように優しかった。二人は、互いの手の温もりを感じながら、静かに見つめ合った。その間には、言葉など必要なかった。
二人は、並んで歩き出した。遠ざかる太鼓の音、次第にぼやけていく提灯の明かり。そして、生田二郎の姿も、やがて、深い夜の帳の中に、そっと、溶けていった。まるで、最初から、そこにいなかったかのように。ただ、二人が歩いた後に残る、かすかな夜風だけが、そこに確かに何かが存在したことを物語っていた。

「──あれ?」
広場の反対側、焼きそばの売り上げを電卓で叩いていた町内会副会長の松本が、眼鏡の奥の目を細めた。「生田さんの姿が見当たらねぇな」
最初に異変に気づいたのは、祭り実行委員の若手、ケンだった。指さすその先、薄暗い生垣の向こうに、ぼんやりとした光の塊が二つ──生田と若い女性の姿が、輪郭を失いながら夜の闇に溶けていっていた。
「おいおいおい、生田さんが。生田さんが成仏していってるぞ!」
ケンの焦った声に、近くで片付けをしていた町内会の面々が、慌てて顔を上げた。
「あ、あの野郎。町会費まだきっちり貰ってねえぞ」
「最後に焼きそば二個も持って行きやがって、まだ町会費払ってねえじゃねえか」
「誰か、誰か捕まえろ!せっかくここまで引き留めたのに、成仏させんな!」
誰からともなく、騒然とした声が上がり始めた。人混みの間を縫うように、血眼になった町内会の男たちが、ドタバタと生垣の方へ駆け寄る。
しかし、彼らが辿り着いた時、生田の姿はなく、微かな光の粒子が火の粉のように舞い、そして儚く消えていった。
「生田さーん、それはないぜ」
副会長の松本が、悔しさと諦めがないまぜになったような声で叫んだ。その目は、うっすらと涙で滲んでいるようだった。

ぽかんと口を開けたまま、立ち尽くす町内会の一同。

「──成仏、しやがった……」
誰かが呟いた。
「……ま、あの人らしいっちゃあ、らしいな」
「最後まで、人の手を煩わせるんだから」
焼きそばの屋台のオヤジが、遠い目をして、しみじみと呟いた。
「一緒に消えていった女の人、あれ、きっと君江さんよね」
婦人会の一人が、静かに言った。

「来年は、あの生垣の近くに、焼きそばの屋台、置いておこうか……二人分」
「……そうだな」
町内会の連中は、言葉少なに、広場の隅を見た。さっきまで生田と君江が並んで座っていた生垣のあたり。夜風に吹かれて、誰かが落とした小さな白い紙ナプキンが、くるりと一回転して、所在なさげに地面に落ちた。それはまるで、「またな」と小さく手を振る、生田の控えめな別れの挨拶のようだった。
祭りの喧騒が、また少しずつ、ざわめきを取り戻し始める。夜空の下、響き渡る太鼓のリズムに合わせて、どこからともなく、盆踊りの輪が、ゆっくりと広がっていった。
何も変わらない、いつもの夏の夜。けれど、確かに何かが、そこに確かに存在し、そして静かに消えていった、そんな夜だった。

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