小説「死人にクチナシ(第一話)」

生田二郎は、死んでいた。
にもかかわらず、彼の日常は、生きていた頃とほとんど変わらなかった。朝、けたたましいラジオ体操の音に、重い瞼を渋々と開ける。猫背のまま、冷え切った台所へ足を運び、古びた電気ポットで湯を沸かす。安物のインスタントコーヒーを啜り、「やっぱり、まずいな」と独りごちると、無駄のない流れるような動きで煙草に火をつけた。
窓際でぼんやりと煙をくゆらせながら、隣家の洗濯物を睨む。
「相変わらず、センスねぇな」

自身の身体が、薄いヴェールを被ったように、やや半透明になっていることには、どうやら気づいているようだった。だが、別にそれを深刻に捉えるでもなかった。
もともと生田は、生きていた頃から、世界に対して期待を持たない男だった。
この世にしがみつくことに、何の疑問も抱いていなかった。
だから死んでも、「かまうもんか」と自然に生活を続けた。
当然、年金は止まった。
銀行口座も凍結された。
そして、町会費も、滞納が始まった。

ーーー
町内会の集会所には、町会役員たちが重たい顔で集まっていた。
畳敷きの部屋に、扇風機だけがぐるぐるとうるさく回っている。
机の上には、生田二郎の名前が記された「滞納者リスト」。
赤い丸が三つついている。
「……死んだ人間から、金取るのかよ」
副会長の小林が、座布団をいじりながらボソッと言った。
「しょうがねぇだろ、死んでるけど住んでるんだから」
会長の佐藤が、渋い顔で応じた。
「そもそも死んでるのに住んでるってのはどう言う訳だよ。アイツ、普通に生ゴミも出してんだぞ?
「成仏できてねえんだろ」
「まあ、生田の親父の事だからな」
小林は窓の外で音もなく揺れる風鈴を見ながら、諦めたように言う。
「けどさあ、年金止まってんだぞ? どうやって払うんだよ。死んでんのに」
「知らねぇよ。知るかそんなもん」
誰かがため息をついた。

盆踊りの準備も佳境に入り、役員たちはみんなピリピリしていた。
そんな中、生田の滞納だけが、誰にも触りたくない生ゴミのように宙ぶらりんになっていた。
「見て見ぬふりはできねぇのか?」
「できねぇよ。生田んとこ、まだ表札出てんだぞ。この間も家の前で騒いでた小学生に怒鳴り散らしてたって言うし、死んでるくせに誰よりも存在感あるからな」
蒸し暑い初夏の昼下がり、扇風機の周期的なモーター音が眠気を誘う。
ドン、ドドン。
遠くで、盆踊りの太鼓が練習されている音がかすかに鳴っている。

ーーー
結局、煮詰まった会議は、以下の様な結論に辿り着いた。

・生田二郎は、確かに死んでいるが、依然としてあの家に住んでいる。
・住んでいる以上、町内会のルールに則り、町会費は発生する。
・従って、しかるべき手段をもって、町会費を徴収に行く。

誰も心底納得しているわけではなかった。ただ、誰も、この面倒な問題に正面から異を唱える気力も残っていなかった。
佐藤が、書類の束をいい加減にまとめながら、うんざりしたように言った。
「まあ、とりあえず、一度、様子を見に行くしかねえか」
重い腰を上げながら、小林が、まるで独り言のようにぼやいた。
「死んだやつから取り立てに行くなんて、まるで俺たち、地獄の税務署員だな」
誰も笑わなかった。

ーーー
生田の家に到着すると、玄関は家があくびでもしているかのように、間抜けにぽっかりと開いていた。
見慣れた光景。生前と寸分変わらない。
脱ぎっぱなしの古びたサンダル、山積みになったままの朝刊。
ただ、そこに満ちている空気だけが、生きた人間の家にあるべき瑞々しさを欠き、乾いた砂漠のようだった。
猫の額ほどの庭に面したガラスの格子戸を覗き込んでみると、薄暗い居間の擦り切れたソファに、生田が死んだような顔をしてもたれていた。
指先には、火の消えかけた煙草。目は、焦点を失ったまま、何もない虚空を捉えている。
しかし、かつて人を食ったような、あの不遜な面構え。それは、生を終えてなお、その輪郭を曖昧にすることなく、そこに在った。

「生田さん」
佐藤は、喉の奥で言葉を探すように、ためらいがちに口を開いた。
生田の顔がお化け屋敷の生首のように佐藤の方を向いた。
「あの……町会費の件で……」

生田は、ゆっくりと煙を吐き出し、面倒くさそうに玄関先へと出てきた。
「どう言う事だ。死んだ人間から、まだ金を巻き上げようっていうのか」
「……まあ、その、お住まいになっていらっしゃいますので……」
佐藤の声は、どこか言い訳がましい。
「年金は、とっくに止まってるんだがな」
佐藤は、乾いた笑いを洩らした。それは、嘲弄というよりも、諦念に近いものだった。
「払わないとは、言ってねえよ」
佐藤、小林、鈴木は、意味を測りかね、無言のまま視線を交わした。
「まあ、払うとも言ってねえがな」
生田はフィルターぎりぎりまで燃えたタバコを弾くと、さも旨そうに次の一服を吸い込んだ。

沈黙は重く、役員たちの焦燥をじっとりと包み込む。
「……生田さん」
会長の小林は、静かに、しかし決然とした口調で言った。その顔には、わずかながら覚悟の色が滲んでいた。
「どうすれば、町会費を納めていただけますか」
生田は、虚ろな目をわずかにこちらに向けた。
そして、乾いた喉の奥から、かすれた鼻音を漏らした。
「そうさな。盆踊りで、俺に焼きそばを食わせるってのはどうだ」
「焼きそば……?」
小林は、思わず間の抜けた声を上げた。
盆踊りの夜、必ず婦人会が作る、あの独特の焼きそばのことだろうか。
正直なところ、その評判は芳しくなかった。
薄すぎるソース、伸びきった麺、焦げ付いたキャベツ、そして、幻のような微量の肉。
口にした若い連中は、毎年のように露骨に顔をしかめた。
「そろそろ、作り方を変えた方がいいんじゃないの」
何度か、町内会の議題に上がったものの、そのたびに、婦人会の誰かが頑なに首を横に振った。
「これは、君江さんのレシピなんだから、守らなきゃダメよ」

君江。
かつて婦人会をまとめ、文字通り、この町を支えた、生田二郎の妻。
何かというと人と揉め事を起こす二郎とは対照的に、誰よりも世話焼きで献身的に働く君江は、町内の誰からも慕われる存在であった。二郎がこれまで何とか受け入れられてきたのも、君江の人徳によるところが大きい。
君江が亡くなって以後、「君江さんのレシピ」を守ることは、婦人会の間で一種の不文律となっていた。

生田にとって、君江の作る焼きそばは単なる食べ物ではなかった。
遠い記憶の底に眠る、幼い頃、母親が時折作ってくれた素朴な焼きそばの、朧げな残像。
キャベツばかりで、べたつくほど甘いソース。
それと同じ味がする君江の焼きそばは、生田にとって、貧しくも幸せだった幼少期と今とを繋ぐ臍の緒のような存在だった。
君江が亡くなってから、あの焼きそばを口にする機会は、永遠に失われた。
盆踊りへ行けば食べることはできたのだが、臍曲がりの生田にとって、盆踊りの賑わいの中へ身投じるのは憚られた。

「……焼きそばを一つ。ちゃんと、焼きたてのやつをくれ」
生田は、ぽつりと、まるで独り言のように言った。
「そしたら、町会費のことは考えてやらんこともねえよ」
小林たちは、押し黙ったまま、互いの顔を見合わせた。
誰も、「そんなことで」とは、口に出すことができなかった。
なぜか、喉の奥に何かが詰まったように、言葉が出てこなかった。

ーーー
集会所に戻った頃には、西の空は茜色に染まり、夜の帳がゆっくりと降り始めていた。
「……焼きそば、かよ」
小林が、疲れたように呟いた。
「まあ……作ってもらえば、済む話じゃないか」
鈴木は、壁に凭れかかったまま、投げやりに言った。
「あれ、まずいって評判だけどな」
「それが、いいんだろう」
佐藤は、夕焼けに染まる空を見上げながら、ぽつりと言った。
外では、盆踊りの櫓の組み立てが、着々と進んでいた。遠くから、乾いた太鼓の試し打ちの音が、夜の静けさを破って響いてきた。

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